名前 | 明智光秀 | ||||
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生年 | 1528年(1516年?) | ||||
没年 | 1582年7月 | ||||
出身 | 美濃国 | ||||
所属 | 斎藤道三家臣 → 朝倉家臣 → 幕臣 → 織田家臣 | ||||
異名 | 金柑頭、三日天下、咲庵 | 武器 | 明智近景、倶利伽羅郷 ほか | ||
両親 | 父:明智光綱、母:お牧の方? | 兄弟 | 信教、康秀、御ツマキ? | ||
配偶者 | 正室:妻木煕子 | 子 | 光慶、玉(ガラシャ) ほか | ||
辞世の句 | – |
目次
主な戦歴
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西暦 | 元号 | 合戦名 | 対戦相手 | |
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1569年 | 永禄12年 | 本圀寺の変 | 三好三人衆 | |
1570年 | 元亀元年 | 金ヶ崎の戦い | 朝倉・浅井軍 | |
1570年 | 元亀元年 | 姉川の戦い | 浅井・朝倉軍 | |
1570年 | 元亀元年 | 志賀の陣 | 浅井・朝倉・比叡山 | |
1571年 | 元亀2年 | 比叡山延暦寺焼き討ち | 比叡山延暦寺 | |
1573年 | 元亀4年 | 石山城・今堅田城の戦い | 幕府軍 | |
1573年 | 元亀4年 | 槇島城の戦い | 足利義昭 | |
1575年 | 天正3年 | 高屋城の戦い | 三好・石山本願寺 | |
1575年 | 天正3年 | 長篠の戦い | 武田勝頼 | |
1575年 | 天正3年 | 越前一向一揆衆 | 一向一揆衆 | |
1575年 | 天正3年 | 第一次黒井城の戦い | 赤井・波多野軍 | |
1576年 | 天正4年 | 天王寺の戦い | 石山本願寺軍 | |
1577年 | 天正5年 | 信貴山城の戦い | 松永久秀 | |
1577~1579年 | 天正5~7年 | 第二次黒井城の戦い | 赤井忠家 | |
1578年 | 天正6年 | 神吉城の戦い | 神吉頼定 | |
1578年 | 天正6年 | 有岡城の戦い | 荒木村重 | |
1579年 | 天正7年 | 八上城の戦い | 波多野秀治・秀尚 | |
1582年 | 天正10年 | 甲州征伐 | 武田勝頼 | |
1582年 | 天正10年 | 本能寺の変 | 織田信長 | |
1582年 | 天正10年 | 山崎の戦い | 羽柴秀吉 |
その他の足跡
- 1528年(または1516年) 明智光綱の子として生まれる
- 1535年 父・光綱と死別し、家督を継ぐ
- 1545年 妻木煕子と婚約する
- 1556年 斎藤義龍に明智城を攻められ、一家離散。浪人となる
- 朝倉義景の家臣となり、10年ほど仕える
- 1566年 足利義昭と出会い、幕臣となる
- 1568年 織田信長に義昭上洛を持ち掛け、承諾を得る
- 1568年 朝倉家を離れ、幕臣及び織田家臣となる
- 1568年 織田信長の上洛戦に参加
- 1569年 本圀寺の変の功績から奉公衆に取り立てられる
- 1570年 正月のころは奉公衆(幕臣)として扱われている記録がある
- 1571年 足利義昭に暇願いを出すも不受理となる
- 1571年 比叡山焼き討ちの功績から、近江志賀郡5万石を与えられる。
- 1571年 坂本城の築城を開始(1573年完成)
- 1575年 惟任日向守の名を賜る
- 1575年 丹波方面の攻略を開始
- 1576年 陣中で病(赤痢?)を患い、死にかける
- 1576年 妻・煕子が死去する(『西教寺塔頭実成坊過去帳』)
- 1578年 丹波攻略の拠点として亀山城を築城
- 1578年 娘・玉と細川忠興が結婚する
- 1579年 丹後守護の一色義定を降伏させ、丹後を織田支配下に置く
- 1579年 丹後29万石を与えられる(計34万石)
- 1579年 近畿方面の責任者になる(丹後の細川忠興、大和の筒井順慶が指揮下に入る)
- 1579年 福知山城を築城
- 1580年 大和検知奉行として派遣される
- 1581年 京都御馬揃えの奉行に任命される
- 1581年 「明智家中法度」を制定する
- 1582年 徳川家康の接待役を任される
- 1582年 本能寺の変の前に、愛宕神社で連歌会「愛宕百韻」を開催する
- 1582年 本能寺の変を起こすも、与力らの支持を得られずに孤立する
- 1582年 伏見小栗栖の藪で落人狩りにあい、生涯を終える
覚え書き
- 斎藤道三に仕えていた説のほか、敵対していた説がある。その場合は、土岐頼純の家臣
- 1566年ごろに細川藤孝に仕え、細川経由で幕臣となった説もある
- 浪人時代にあらゆる教養を培い、人脈を広げた
- 幕府だけでなく、天皇家や公家とも親交があった
- 比叡山延暦寺焼き討ちでは意外とノリノリだった説(部下に誰一人と逃がすなと命令した?)
- 織田家臣初の城持ち大名となる(坂本城)
- 攻略を任された丹波国は、山続きの土地に国人が割拠し、かつ義昭派が多かったため、織田にとって厳しい土地だった
- 天王寺の戦いで敗北しかけるも、織田信長自らが救援に来たことで助かる
- 手先が器用で鉄砲の名手でもあった
- ルイス・フロイスに「狡猾で密会を好む」 陰湿な性格と評される(『日本史』)
- 領地では善政を敷いたことから、民に慕われていた
- 『日本史』に家康の接待時に失態を犯し、信長に足蹴にされたとあるが、実際に見たわけではなく噂を記したもの
- 妻・煕子の死亡時期には諸説あり、1576年の説のほか、1582年説(『明智軍記』)もある
- 本能寺前に3回くじ引きをして、すべて「凶」だったという逸話がある
- 愛宕百韻で詠んだ「時は今 雨が下しる 五月哉」を深読みすると「土岐氏が今天下を治める」となる?
- 本能寺の変を起こした理由は不明。現在でも怨恨説、他に黒幕がいる説、四国救援説、シロアリ説など、あるいみロマン溢れる状態に。個人的にはシロアリ説が好き
参考文献
- 『信長公記』(著:太田牛一、訳:中川太古)
- 『考証 明智光秀』(著:渡邊大門)
- 『明智物語』(訳:森英利、菅原倫)
- 『現代訳 川角太閤記 上』(著:川角三郎右衛門、訳:山崎白露)
- 『明智光秀のことがマンガで3時間でわかる本』(著:津田太愚、漫画:つだゆみ)