合戦概要
小口城の戦い | |||||
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開戦時期 | 1562年7月(永禄5年6月下旬) | ||||
発端 | 領地問題で織田信長と織田信清の関係が悪化。信清が美濃斎藤氏と通じ、離反する | ||||
決着 | 信清方の小口城内まで信長の小姓衆らが攻め込むも、落とせずに撤退 | ||||
交戦勢力 | |||||
織田信長軍 | 織田信清(犬山)軍 | ||||
岩室重休ら小姓衆 | 中島豊後守(小口城城主) |
合戦の流れ
旧岩倉織田氏領の割譲問題で信長との関係が悪化していた犬山城主・織田信清は、美濃の斎藤氏と連絡をとって反旗を翻します。
それを受けた信長は、1562年7月ごろ、信清方の小口城を囲んで攻撃を仕掛けました。
城壁を破壊し、小姓衆らを中心に城内に斬りこみましたが、小口城方の抵抗は激しく、信長は十人余りの臣下を失います。
くっ……私もここまでか
その中には、家臣の中で知らぬ人がいないとされるほど優秀な小姓・岩室重休(長門守)もいました。
信長は、彼の死をひどく悲しんだと言われています。
結局、小口城を落とすことは叶わず、信長は軍を撤退させました。
城内まで攻め込まれた小口城方もそれなりの被害を受けていると予想できるので、両者痛み分けの結果だったものと思われます。
小牧山に築城
美濃斎藤氏および犬山の織田信清を攻略するにあたり、清州城では立地が悪いと考えた信長は、居城を移すことを決めます。
しかし、清州は尾張の中心にある富裕な土地。
清州を離れるとなれば、家臣たちから不満が出るのは必定でした。
そこで信長は、初めに高山の二の宮山への築城を提案しました。
よし、この山に築城するぞ。皆もここに家を移せ。
あの峰にはお前、そっちの谷にはお前の屋敷を立てるとしよう
清州とは比べものにならないくらい不便な山中への引っ越しを命じられ、家臣たちは大変迷惑がりました。
その後、今度は小牧山に上って、この地に築城することを提案します。
やはり小牧山にしよう。皆、この山に移り住むぞ
小牧山は麓まで川が続いていて、家財道具を運ぶのに便利な土地だったため、家臣たちは喜んで移転しました。
二の宮山への移転提案を挟まなければ、小牧山への移転にも反対があったと予想されます。
現代でいうドア・イン・ザ・フェイスでしょうか。
この小牧山築城の一件は、信長の先進的な思考と手腕が見られる出来事の一つとして知られています。
小牧山のすぐ隣(約2㎞)には、信清方の小口城がありました。
小牧山城が完成すれば、小口城は上から見下ろされる形になります。
築城が順調に進んでいくのを見て、守り切れないと悟った中島豊後守ら小口城勢は、城を明け渡して犬山城に合流し、籠城の姿勢を取りました。
犬山城攻略
1565年(1564年という説も有)、丹羽長秀の調略により、黒田城の和田定利と小口城の中島豊後守が信長に味方することを決めます。
これより我々は、信長殿にお味方致します
よくぞご決断なされた。信長様もお喜びになることでしょう
2人の手引きによって犬山城に攻め入った長秀は、四方から鹿垣を二重三重に巡らせて包囲しました。
重臣2人の寝返りもあったせいか、犬山城からはさしたる抵抗もなく、順調に制圧できたようです。
犬山城落城後、城主の織田信清は、甲斐国へ落ち延び、名を犬山鉄斎と改めました。
参考文献
- 『現代語訳 信長公記』太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫、2013年
- 『戦況図解 信長戦記』小和田哲男、サンエイ新書、2019年