合戦概要
村木砦の戦い | |||||
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開戦時期 | 1554年2月25日(天文23年1月24日) | ||||
発端 | 水野氏攻略を目論んだ駿河勢が鴫原城を攻め落とし、村木に砦を築いた | ||||
決着 | 今川軍が降伏。多大な犠牲を出しつつも、織田軍の勝利となる | ||||
交戦勢力 | |||||
織田軍 | 今川軍 | ||||
織田信長・織田信光・水野信元 ほか | 不明 |
合戦の流れ
開戦前の状況
山口教継・教吉父子の内応により鳴海・大高・沓掛城を得ていた今川氏は、さらに尾張侵略を進めるため、水野氏討伐に乗り出します。
まず鴫原の山岡伝五郎を攻め滅ぼすと、村木まで進出して堅固な砦を築き、水野信元が守る小河城を次の標的と定めました。
さらに寺本城を調略によって寝返らせ、那古野城から小河城に続く陸路を封鎖してしまいます。
織田信長にとって、水野氏は大切な同盟相手です。
今川氏の侵攻を防ぐ上でも見捨てるわけにはいきませんが、当時の信長は清州城の織田大和守家と事を構えている最中でした。
居城の那古野を空ければ、その隙を大和守家に突かれるかもしれず、窮した信長は舅の斎藤道三を頼ります。
婿殿が困っておるようだ。守就よ、お前が行って助けてやれ。
ただし、戦況は毎日報告するようにな
承知致しました
1554年2月21日、美濃から安藤守就が1,000の軍勢を連れて駆けつけました。
守就殿、よくぞ来てくれた!
俺が留守の間、那古野のことを宜しく頼む
お屋形様からもよくよく申し付かっております。ご武運を
信長は自ら守就に挨拶し、那古野城の留守居を任せると、その翌日に出陣しました。
このとき、家老の林秀貞・通具兄弟は美濃勢に頼ることをきらって出陣拒否し、与力の城へ退去してしまったため、この合戦には参加していません。
信長の進軍経路
22日に那古野城を発った信長たちは、その日、熱田に泊まりました。
陸路は今川氏に寝返った寺本城の勢力によって封鎖されているため、海路で知多半島に向かうつもりだったのです。
しかし、翌23日は予想外の大風で、波は大荒れ。
船頭たちは「船を出せない」と言います。
かつて源義経と梶原景時が、退却用の逆櫓をつけるか否かで争ったときも、こんな風だったのだろうな。
今日の渡海は絶対だ。船を出せ
信長は止める船頭たちを半ば強引にやり込め、出港しました。
1時間ほどで知多半島西岸に漕ぎ着けると、兵にはその場で野営させ、自らは信元のいる小河城に駆けて戦況を聞きます。
村木砦の北は天然の要害で、到底攻め入ることはできません。
東側に表門、西側に裏門があり、南は巨大な空堀で守りを固めています
よし、わかった。南側の攻めは俺が請け負おう。
西は叔父上に任せるゆえ、信元殿は東の表門を攻めてくれ
開戦
2月25日、信長の軍勢は夜明けとともに出撃しました。
南の堀では、若武者たちが必至で堀をよじ登り、敵方に突き落とされてはまた這い上るのを、堀端に立った信長が鉄砲を次々に撃たせて援護します。
信長自ら采配を振るっているため、兵たちの士気は高く、我先にと堀を攻め上がりました。
西側を任された織田信光や、東側の水野信元も激しく砦を攻め立てます。
今川氏の抵抗も凄まじいものでしたが、絶え間なく攻め続けられたため、兵の数を減らし、ついに降伏となりました。
信長としては、この機に攻め滅ぼしてしまいたいところですが、信長側の死傷者の数もおびただしく、また夜も近づいていたために降伏を受け入れます。
本陣に帰った信長は、家臣たちの働きや、その死を思い返して涙しました。
皆よく働いてくれた……今夜はひとまず休んでくれ
終戦後
26日、村木の処理を水野信元に任せ、信長は裏切った寺本城下を焼き討ちにして那古野に帰りました。
27日、信長は守就の陣所を訪ね、今回の件について礼を述べました。
その翌日に美濃勢は撤収。
帰国した守就は道三に報告します。
此度の件、信長殿は大層感謝しておいででした
それで、婿殿はいかなる戦をしたか
はい。荒れ狂う海を恐れることなく渡り切り、砦を攻めるにも自ら難所を引き受け、鉄砲を用いて果敢に戦い、将兵の士気は留まるところを知らず……
なんとも恐ろしい男よ。隣国には居てほしくない人物だな
参考文献
- 『現代語訳 信長公記』太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫、2013年
- 『戦況図解 信長戦記』小和田哲男、サンエイ新書、2019年