合戦概要
桶狭間の戦い | |||||
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開戦時期 | 1560年6月12日(永禄3年5月19日) | ||||
発端 | 今川義元が鳴海・大高城を占領し、尾張に侵攻。松平元康を先陣に攻め寄せた。 | ||||
決着 | 多大な犠牲を払いつつも、戦況を制した織田信長の勝利 | ||||
交戦勢力 | |||||
織田軍 | 今川軍 | ||||
織田信長・毛利良勝・佐久間盛重 ほか | 今川義元・岡部元信・松平元康 ほか |
合戦の流れ
鳴海城包囲
今川義元が尾張に侵攻しようとしていると聞き、一大決戦を覚悟した織田信長は、今川方に渡っていた鳴海城を包囲しました。
鳴海城の北にある丹下という古屋敷を砦にして水野帯刀を、要害とした善照寺旧跡には佐久間信盛を、中島村の砦には梶川高秀を入れます。
また、黒末川の向こうには、鳴海・大高間を遮断するための砦を2ヶ所築き、丸根砦には佐久間盛重を、鷲津砦には織田秀敏を配備しました。
今川義元、侵攻開始
1560年6月10日、今川義元が沓掛城に入りました。
信長のもとに、丸根・鷲津の両砦から報告が届きます。
今川は18日夜には大高城に兵糧を入れ、19日の朝に我らの砦を攻撃してくるでしょう
まさに危急存亡を告げる報告でしたが、信長は作戦らしい作戦を立てず、ただ家老と雑談をしただけでした。
もう夜も更けたな。お前たちも帰って休むといい
運が尽きれば知恵も鈍ると言いますが、今がまさにその時ですね……
そんな信長の様子に、家老たちは呆れ返り、嘲笑する者さえいる始末。
今川勢のみならず、織田家臣までもが織田家の滅亡を確信していました。
織田信長、出陣
6月12日明け方――丸根・鷲津両砦からすでに攻撃を受けている報告が入ります。
人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。
ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか
報告を受けた信長は、幸若舞「敦盛」の一節を舞うと、法螺貝を吹かせ、鎧をまとい、立ったまま食事をとって出陣しました。
この時信長に従ったのは、小姓衆の岩室長門守、長谷川橋介、佐脇良之、山口飛騨守、加藤弥三郎のわずか5人。
主従たった6騎で熱田までの3里(約12㎞)を駆けました。
午前8時頃、上知我麻神社まで来た信長たちが東を見ると、煙が上がっていました。
それは、鷲津・丸根砦が陥落したことを知らせるものでした。
この時の軍勢は、信長と小姓衆5人に、追いついてきた雑兵が200人ほど。
信長は、まず丹下砦に行き、さらに佐久間信盛がいる善照寺砦に進むと、そこで将兵を終結させ、陣容を整えました。
今川義元、桶狭間に着陣
正午――今川義元は、桶狭間山で北西に向かって陣を張りました。
鷲津・丸根を攻め落としたか。これにまさる満足はないな
兵たちを休ませながら、戦況を聞いた義元は大層喜び、謡を3番うたったといいます。
この合戦で、松平元康(のちの徳川家康)は、今川方の先陣を務めていました。
なんとか砦は落としたが……流石は信長殿の将兵、我らの消耗も激しい。
しばし、大高城で休むとしよう
義元らが桶狭間で休んでいた頃、鷲津・丸根砦の攻略で疲弊した松平勢もまた、兵糧を入れた大高城に陣を張って休息をとっていました。
一方の織田軍は、信長が善照寺砦まで来たことを知ると、佐々政次・千秋季忠の2将が兵300を率いて今川勢に突撃を仕掛けます。
しかし、察知した今川勢に迎え撃たれ、織田軍は政次・季忠の2将と兵50騎を失いました。
義元の矛先には、天魔鬼神もかなうまい
義元はまた喜んで、謡に興じたそうです。
信長の進軍
戦況を見ていた信長は、軍勢を中島村の砦に移そうとします。
中島に移動するぞ
なりません!あの道は両側が深田となっていて、一騎ずつしか進めない……少数であることが敵に知られてしまいます!
家臣たちは激しく反対しましたが、信長は振り切って中島に向かいました。
中島についた信長は、将兵を出撃させ、自らも出陣しようとしますが、今度は家臣たちが馬の轡にとりついて無理矢理止めました。
お待ちください!あまりに危険すぎます!
今川の兵は夜通しの行軍と砦攻略で疲弊している。
それに比べて、我らは新手だ。
少数の兵だからといって、多数の敵を恐れるな。勝敗の運は天にある!
止める家臣に対し、信長は声を張り上げます。
敵が掛かってきたら退き、退いたら追い討て。
敵の武器などは捨ておいて拾うな。
この合戦に勝ちさえすれば、皆の名誉は末代までの高名となるぞ!
そこへ、前田利家らが敵の首をいくつか持ってきました。
彼らにも同じことを言い聞かせ、信長は軍を山際まで進めていきます。
桶狭間の決戦
信長たちが山際につくと、激しい雨が降り出しました。
雨は北西にむかって陣を張った今川勢の顔に目掛けて吹き荒れ、織田軍にとっては背中を叩くように降ります。
この急な天候に、人々はこの合戦を「熱田大明神の神慮による戦いだったか」と噂したといいます。
空が晴れたとみると、信長は持ち前の大音声で叫びます。
今こそ決戦の時!掛かれーッ!!
信長の軍勢が黒煙を上げながら掛かってくるのを見て、今川勢は後ろにどっと崩れ、義元の輿さえ打ち捨てて逃げ出しました。
義元の旗本はあれだ!あそこに掛かれ!
信長の下知を聞いた若武者たちが、義元目掛けて躍り掛かりました。
始めは300騎ほどで義元を囲んでいた今川勢も、何度も引き返しては斬り合ううちに、50騎ほどまで減っていきます。
信長自身も馬を降り、若武者たちと競うように斬りこむ。
とんでもない乱戦となりましたが、旗指物の色で敵味方の区別をつけ、戦い続けました。
義元に真っ先に槍をつけたのは服部春安でした。
服部春安、参る!覚悟!
甘い!小身ごときにやられるものか!
しかし、義元に膝口を斬り払われ、倒れ伏します。
次に義元に掛かって行ったのが、毛利良勝です。
良勝は義元を斬り伏せると、その首を取りました。
今川義元の首、毛利良勝が討ち取った!
織田を裏切り、今川のために尽くした山口父子を処断したのが祟ったのでしょうか。
いよいよ天運に見放された今川勢は総崩れとなります。
深田に逃げ込んだ今川兵は足を取られて這いまわっているところを、追ってきた織田の若武者たちにことごとく首を取られました。
首はすべて清州で検分する
信長は義元の首だけその場で確認すると、その首を掲げさせ、元来た道を戻って日のあるうちに帰城しました。
合戦翌日
翌日、清州の城で首実検が行われました。
太田牛一の『信長公記』によれば、今川方の首は3,000余り。
『桶狭間合戦討死者書上』によると、2,753人の死者が出たといいます。
下方九郎左衛門が義元の同朋衆を生け捕りにしたため、その同朋衆に首の身元を改めさせました。
信長は検分が終わると、同朋衆に義元の首を持たせ、十人の僧と一緒に駿河国へ帰したそうです。
この戦いにより、信長は尾張から今川勢を一掃することに成功しましたが、信長方の死者も1,000人弱と、軍団の半分近くを失っています。
桶狭間の戦い奇襲説
桶狭間の戦いで、織田信長が勝利を掴んだのは、迂回路からの奇襲が刺さったためとする説がありました。
この奇襲説の初出は小瀬甫庵による『信長記』(1611年)と言われていて、太田牛一による『信長公記』には迂回や奇襲を思わせる記述はありません。
また、甫庵自身が「太田牛一の『信長公記』は正直に書きすぎている」と評していることもあり、甫庵が描いた奇襲説は、物語としての面白さを強調するための創作である可能性が高いとされています。
参考文献
- 『信長公記』太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫、2013年
- 『戦況図解 信長戦記』小和田哲男、サンエイ新書、2019年
- 『新版 一冊でわかるイラストでわかる図解戦国史』成美堂出版、2021年
- 『検証桶狭間。敵将・今川義元は信長を高く評価し、背水の陣で決戦に挑んでいた!』安藤昌季、まんがびと、2017年