合戦概要
浮野の戦い | |||||
---|---|---|---|---|---|
開戦時期 | 1558年8月25日(永禄元年7月12日) または 1557年8月6日(弘治3年7月12日) | ||||
発端 | 岩倉城主の織田信賢が、織田信行(信勝)と共謀し、信長の直轄地を横領しようと企て、反信長の姿勢を明らかにした。 | ||||
決着 | 織田伊勢守軍は多くの将兵を失い敗走。1,250以上の首級をあげ、弾正忠軍の勝利 | ||||
交戦勢力 | |||||
織田弾正忠軍 | 織田伊勢守軍 | ||||
織田信長、橋本一巴、佐脇良之 ほか | 織田信賢、林弥七郎 ほか |
合戦の流れ
発端
稲生の戦いに敗れた織田信行は、信長に赦された身にも関わらず、再び篠木三郷の地を横領しようと企てます。
その共謀相手として選ばれたのが、岩倉城主・織田信安(信賢の父)でした。
この企みは、柴田勝家によって信長の耳に入ることとなり、信行は仮病を演じた信長の策により誘殺され、父・信安に代わり城主となった信賢もまた、信長の槍を受けることとなります。
開戦
永禄元年(あるいは弘治3年)の7月12日――信長は伊勢守家を攻めるため、清州から出撃しました。
清州城から岩倉城までは3キロメートルほどですが、正面から進むと要害に阻まれてしまいます。
そのため信長は、12キロメートルほど北へ迂回し、岩倉城の背後から浮野の地に布陣しました。
これを受けて岩倉城からも3,000ほどの兵が出撃し、正午に斬り合いが始まりました。
戦いは信長方の有利に進み、数時間ののち、岩倉勢は追い崩されます。
次々敗走する岩倉勢のなかに、弓の名手として有名な林弥七郎という武士がいました。
そこにあるのは弓の巧者と名を聞く林弥七郎殿とお見受けする!
弓を手に退いていこうとする弥七郎を追ったのは、信長の鉄砲の師も務めた鉄砲の名手・橋本一巴。
弥七郎と一巴は、旧知の間柄でした。
貴殿か。戦うというのであれば、命を助けてはやれないぞ
無論。承知の上よ
弥七郎は「あいか」という12センチメートルほどもある矢尻をつけた矢をつがえ、ひょうと放ちます。
放たれた矢はまっすぐに飛び、一巴の脇の下へ深々と刺さりました。
一巴が崩れ落ちる――と同時に、弥七郎の体もぐらりと傾きます。
弥七郎が矢を放ったとき、一巴もまた2発の銃弾を放っていました。
それが弥七郎の体を捕らえたのです。
その様子を見ていた信長の小姓・佐脇良之は駆け寄って、弥七郎にとどめをさそうとします。
その首、もらった!
なんの!
弥七郎は立ち上がれはしないものの、気丈にも腰から太刀を引き抜くと、勢い良く振り上げました。
その切っ先は良之の左肘を捕らえ、鎧の籠手を斬り飛ばします。
しかし、良之はひるみません。
駆け寄るままの勢いで斬りかかり、ついに弥七郎の首をとったのです。
織田伊勢守家に組した林弥七郎の生涯は、ここに幕を閉じました。
しかし、弥七郎を知る人は「彼の弓と太刀の腕は見事だった」と称え続けました。
よし、勝敗は決した!引き上げるぞ!
勝利を確信した信長は、その日のうちに清州城に兵を収めました。
翌日に首実検を行ったところ、そこには1,250以上もの首が並んでいたとのことです。
岩倉城落城
永禄2年(あるいは永禄元年)の3月――信長は岩倉城下に火を放ち、町を焼いてはだか城にすると、二重三重にも鹿垣(柵)を築いて包囲しました。
それから2~3か月もの間、兵を交代させながら、火矢や鉄砲を撃ち込んで攻め続けます。
岩倉方もなんとか耐えようとしましたが、連日の攻撃は激しく、補給もままならないので開城となりました。
将兵は散り散りとなって、城主の信賢も美濃へ逃げ落ちたといいます。
その後、岩倉城は信長によって破壊され、現在の本丸跡には「岩倉城址」と「織田伊勢守城址」の碑が立てられています。
『甫庵信長記』の浮野の戦い
小瀬甫庵の『信長記』では、犬山城の織田信清が信長に援軍を送ったとされています。
太田牛一による『信長公記』ほど信長優勢ではなく、苦戦を強いられたところに犬山城からの援軍があり、形勢を逆転したようです。
また、柴田勝家や森可成の活躍も強調されています。
物語としては『甫庵信長記』のほうが面白いように思えますが、それ故に創作色が強いという見方もあるため、上記の合戦の流れは太田牛一著の『信長公記』をベースに紹介いたしました。
参考文献
- 『現代語訳 信長公記』太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫、2013年
- 『織田信長の家臣団――派閥と人間関係』和田裕弘、中央公論新社、2017年
- 『尾張平定戦 織田信長、天下統一戦略の萌芽』福田誠、歴史ソウゾウ文庫、2019年