その探しかたで大丈夫?はじまりの戦国武将・北条早雲に会えないワケ

はじまりの戦国武将・北条早雲に会えないワケ

「戦国時代に行ったなら、戦国大名の先駆けこと北条早雲をひとめ見たい!」

そう思われるかたも大勢いらっしゃるでしょう。

あなたは、北条早雲と聞いてどんなイメージを思い浮かべますか?

「55歳で初めて城主になって、84歳で相模平定したハイパーおじいちゃん!」

「低い身分から小田原北条氏の礎になった立身出世の象徴?」

そのイメージでは、北条早雲を見つけ出すのは難しいかも。

この記事では、その理由を名前・年齢・身分の3つの項目からご説明します。

また、早雲がいそうな地域を年代別で紹介しているので、ぜひ最後までご覧ください。

え、本気で戦国時代にタイムスリップして北条早雲探そうとしている人なんているわけないって?

ワイト

ワイトもそう思います

目次

北条早雲って誰?実は違った本当の名前

現代では北条早雲の名前で広く知られていますが、実は生前一度も「北条早雲」と名乗ったことはないそうです。

それじゃあ本当のお名前は?

というと、伊勢新九郎盛時とおっしゃったそう。

一文字もかすっていません。

これでは、いくら「北条早雲さんはどこですか?」と尋ねたところで、見つかるワケがありませんね。

では、北条早雲というお名前はどこから来たのでしょう?

早雲はのちに出家しています。

出家したときのお名前が早雲庵宗瑞

早雲の名前はここからきているようです。

北条はというと、嫡男の氏綱の代から名乗りはじめた家名だとか。

早雲は氏綱に家督を譲った翌年に亡くなっていますので、北条の家名を名乗っていないのですね。

早雲を見つけたいなら「伊勢新九郎」「伊勢盛時」のお名前で探してみましょう。

遅咲きというほどではない?見直された早雲の生年

早雲の生年は長らく1432年と思われていましたが、1456年だったのでは……と昨今見直されています。

その差、実に24歳!

初めて城をもったのは30代前半、相模を平定したのも60代となるので、特に遅咲きではないですね。

伊豆や相模でやたら元気なおじいさんを見つけても、早雲ではない別のかたかもしれません。

むしろエリートだった!将軍直下の官僚家系

もとは身分の低い素浪人だったのでは……とウワサされていた早雲ですが、実はエリート家系出身だと判明しました。

早雲のご実家である備中伊勢氏は、桓武天皇を祖先とする京都伊勢氏の分家筋。

父の盛定は将軍の申次衆を務めていました。

申次衆とは、将軍直属の秘書官のような職。

室町幕府のなかでも、そうとうなエリートだったということですね。

早雲自身もまた、第9代将軍・足利義尚公の申次衆を務めました。

若いころの早雲を探すしにても、身なりのよいかたを探さなければならないのです。

どこを探せばいい?北条早雲の年代別所在地

1486年以前

若いころは、京都ですごした時間が長いようです。

一時期妹(あるいは姉)の北川殿が嫁いだ今川氏の家督争いを仲裁するため、駿河国へ出向いていましたが、また京都に戻ります。

京都に戻った1483年からは将軍義尚公の申次衆を務めました。

1487年 今川氏督争い決着以降

今川氏で再び後継争いがあったため、駿河国へ。

前回の調停では、

  • 前当主・今川義忠と北川殿の息子である龍王丸が成人するまでの間、義忠の従兄弟の小鹿範満が当主を務める。
  • 龍王丸が成人したのちは、当主の座を譲り渡す。

という内容で話がついたはずでした。

しかし、龍王丸が成人したあとも、範満は家督を握り続けて放しません。

「約束が違うじゃないか」と早雲が範満を自害に追い込み、龍王丸はようやく当主の座につけたのです。

早雲はそのお返しとして興国寺城をもらって城主になり、幕府を離れました

この時代に滞在中のかたは、京都ではなく駿河で探してみましょう。

1493年 伊豆討ち入り以降

伊豆討ち入りを機に、早雲の居城が伊豆の韮山城に移ります。

伊豆討ち入りについて、少しだけご説明しますと、

駿河のお隣の伊豆国は、堀越公方が支配していました。

堀越公方とは、関東を統治するために幕府が設置した機関です。

堀越公方を務めていた第8代将軍足利義政公の弟君・政知が死去すると、息子の茶々丸が動き出します。

この茶々丸、かわいいのはお名前だけで、かなりの粗暴者。

ライバルの異母弟とその母親を殺害すると、無理矢理公方の座についてしまったのです。

そこで現れたのが北条早雲。

部下とともに襲撃して茶々丸を追い出すと、韮山城を築いて伊豆を治める拠点としました。

以上が、伊豆討ち入りの概要です。

伊豆のほうが騒がしいな……と思ったら、早雲氏がいらっしゃる時期かもしれません。

1495年 小田原城奪取以降

のちに100年続く小田原北条氏の本拠地・小田原城をゲットしたのがこのころです。

1496年から1501年の間というウワサもあるので、1495年ピッタリに行ってしまうと、まだ大森藤頼が住んでいらっしゃるかもしれません。

大森藤頼とは、早雲に小田原城を奪われてしまった前城主です。

早雲の居場所ですが、小田原城を奪取したあとも今川の将として働いていた記録があるので、ちょくちょく留守にしていた可能性があります。

1509年以降は相模攻略に集中していたようですから、相模を探せばお目にかかることができるかもしれませんね。

おわりに

はじまりの戦国大名・北条早雲の探しかたについてご紹介してまいりました。
北条早雲にお会いになりたいかたは、身なりのよくてエリートっぽい雰囲気の伊勢盛時さんをお尋ねください。

この情報が、北条早雲に会いたいあなたのお役に立てば幸いです。

はじまりの戦国武将・北条早雲に会えないワケ

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