【戦国プロフ帳】安藤守就

安藤守就プロフィール画像名前安藤守就
生年1503年?
没年1582年6月27日
出身美濃国
所属土岐頼芸 → 斎藤家臣(道三 → 義龍 → 龍興)→ 織田信長
異名道足、無用斎、安東守就 ほか武器
両親父:伊賀定重、母:稲葉良通伯母兄弟直茂、守宗 ほか
配偶者郷良、郷利、得月院 ほか
辞世の句
安藤守就プロフィール(※画像はAIです)
目次

おもな戦歴

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西暦元号合戦名対戦相手
1556年弘治2年長良川の戦い斎藤道三
1569年永禄12年大河内城の戦い北畠具教
1570年元亀元年姉川の戦い浅井・朝倉軍
1570年元亀元年志賀の陣浅井・朝倉・比叡山
1573年元亀4年槇島城の戦い足利義昭
1573年天正元年一乗谷の戦い朝倉義景
1573年天正元年第二次長島一向一揆征伐本願寺軍
1575年天正3年越前一向一揆征伐越前一揆衆
1576年天正4年天王寺の戦い本願寺軍
1578年天正6年神吉城の戦い神吉頼定
1578年天正6年有岡城の戦い荒木村重
1582年天正10年北方城の戦い稲葉一鉄

その他の足跡

  • 1503年ごろ 安藤守利(伊賀定重)の子として生まれる
  • 1542年 元の主・土岐頼芸が斎藤道三に追放され、道三に仕えるようになる
  • 稲葉良通(一鉄)・氏家直元とともに西美濃三人衆と称される
  • 1554年 村木砦の戦いに織田信長側の援軍として派遣され、那古野城の留守居を務める
  • 1556年 長良川の戦いで斎藤義龍側につき、以後義龍に仕える
  • 1561年 義龍が死没し、家督が子の斎藤龍興に移り、龍興に仕えることとなる
  • 1564年 女婿の竹中重治(半兵衛)と共謀し、稲葉山城を奪取する
  • 1567年 信長が美濃に攻め寄せると内応し、そのまま信長の家臣となる
  • 1580年 信長に野心を疑われ、林秀貞・丹羽氏勝とともに追放される
  • 1582年 本能寺の変のあと、北方城を奪って再起を図るも、良通(一鉄)に敗北。自害する

覚え書き

  • 母は岩手重久の娘という説もある(系図によって異なる)
  • 娘が竹中重治(半兵衛)に嫁いでいるため、重治の義父にあたる
  • 斎藤家臣時代の居城は北方城
  • 織田家臣追放の理由は「武田に内通したため」と伝えられている
  • 守就自身ではないが、女婿の遠藤慶隆が武田と通じていた記録が残っている
  • 追放後、守就の旧領は稲葉良通(一鉄)に与えられている
  • 本能寺の変の後、稲葉方が先手を打って安藤氏を攻め滅ぼしたという説もある

登場作品

漫画・アニメ

  • 『信長の忍び』重野なおき、白泉社、2008年-

参考文献

  • 『現代語訳 信長公記』太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫、2013年
  • 『織田信長の家臣団――派閥と人間関係』和田裕弘、新人物文庫、2017年
  • 『信長の家臣団≪増補版≫――革新的集団の実像』樋口晴彦、(株)パンダ・パブリッシング、2019年
戦国プロフ帳(安藤守就)

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