名前 | 今川義元 | ||||
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生年 | 1519年 | ||||
没年 | 1560年6月12日 | ||||
出身 | 駿河国 | ||||
所属 | 室町幕府駿河・遠江守護 | ||||
異名 | 海道一の弓取り | 武器 | 義元左文字 | ||
両親 | 父:今川氏親、母:寿桂院 | 兄弟 | 氏輝、彦五郎、玄広恵探 ほか | ||
配偶者 | 正室:定恵院 | 子 | 氏真、一月長得、嶺松院 ほか | ||
辞世の句 | – |
目次
おもな戦歴
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西暦 | 元号 | 合戦名 | 対戦相手 | |
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1536年 | 天文5年 | 花倉の乱 | 玄広恵探 | |
1537年 | 天文6年 | 第一次河東一乱 | 北条氏綱 | |
1542年 | 天文11年 | 第一次小豆坂の戦い | 織田信秀 | |
1545年 | 天文14年 | 第二次河東一乱 | 北条氏康 | |
1548年 | 天文17年 | 第二次小豆坂の戦い | 織田信秀 | |
1554年 | 天文23年 | 村木砦の戦い | 織田信長 | |
1555-1558年 | 弘治元年-永禄元年 | 三河忩劇 | 三河国衆 | |
1560年 | 永禄3年 | 桶狭間の戦い | 織田信長 |
その他の足跡
- 1519年 今川氏親の子として生まれる
- 家督争いを避けるため、4歳で寺に預けられる
- 1529年 太原雪斎に預けられる。雪斎とともに建仁寺に入って「栴岳承芳」となる
- 1536年 兄で当主の氏輝が急死。次男の彦五郎も同日に死亡したため、家督が回ってくる
- 1536年 将軍・足利義晴から偏諱を賜り、名を今川義元と改める。
- 1537年 武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、同盟を結ぶ(甲駿同盟)
- 1537年 武田との盟で北条氏綱の怒りを買い、駿相同盟に亀裂が入る→河東一乱へ
- 1545年 関東管領の山内上杉家・扇谷上杉家の両上杉氏と同盟を結ぶ
- 1547年 人質として送られてくるはずだった竹千代(徳川家康)が織田信秀のもとに送られる
- 1549年 織田信広を捕らえ、人質交換で竹千代を尾張から駿府城に移す
- 1553年 「今川仮名目録」に「仮名目録追加21条」を加える(守護使不入地廃止)
- 1554年 嫡子・氏真と北条氏康の娘・早川殿を縁組。婚姻による今川・武田・北条の甲相駿三国同盟を結成
- 1555年 元服した竹千代に義元から一字を与える(松平元信)
- 1555年 長きにわたり付き従った腹心・太原雪斎を亡くす(享年60)
- 1556年 姪の築山殿(関口氏純娘)と松平元信が結婚。親類衆になる
- 1558年 氏真に家督を譲って隠居する
- 1560年 桶狭間の戦いで織田信長家臣の毛利良勝に討たれて死没
覚え書き
- 公家文化に精通していたが、置き眉・お歯黒姿だったというのは後世の創作という可能性もある
- 毎月決まった日に歌会を開いていたが、義元自身は連歌をあまり好んでいなかった
- 1560年の尾張侵攻については、上洛説と尾張侵攻説があるが、道中(近江など)の大名との外交記録がなく、また、攻め入るにしても兵数(20,000~40,000程度)が少なすぎるため、尾張侵攻説が有力とみられる
登場作品
小説
- 『桶狭間で死ぬ今川義元』白蔵盈太、文芸社、2023年
- 『織田信奈の野望』春日みかげ、GA文庫、富士見ファンタジア文庫、2009年-2019年
漫画・アニメ
- 『織田シナモン信長』目黒川うな、コアミックス、2014年-2021年
参考文献
- 『現代語訳 信長公記』太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫、2013年
- 『検証桶狭間。敵将・今川義元は信長を高く評価し、背水の陣で決戦に臨んでいた!』安藤昌季、(株)まんがびと、2017年
- 『戦国武将、虚像と実像』呉座勇一、角川新書、2022年