名前 | 丹羽長秀 | ||||
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生年 | 1535年10月16日 | ||||
没年 | 1585年5月15日 | ||||
出身 | 尾張国 | ||||
所属 | 織田家臣 | ||||
異名 | 米五郎左、鬼五郎左 | 武器 | あざ丸、にっかり青江 | ||
両親 | 父:丹羽長政、母:能呂氏の女性 | 兄弟 | 長忠、秀重 ほか | ||
配偶者 | 正室:桂峯院 | 子 | 長重、長正、藤堂高吉 ほか | ||
辞世の句 | – |
目次
主な戦歴
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西暦 | 元号 | 合戦名 | 対戦相手 | |
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1553年 | 天文22年 | 梅津表の戦い | ||
1556年 | 弘治2年 | 稲生の戦い | 織田信行 | |
1560年 | 永禄3年 | 桶狭間の戦い | 今川義元 | |
1565年 | 永禄8年 | 堂洞城攻城戦 | 岸信周 | |
1567年 | 永禄10年 | 稲葉山城の戦い | 斎藤龍興 | |
1568年 | 永禄11年 | 観音寺城の戦い | 六角義賢 | |
1570年 | 元亀元年 | 姉川の戦い | 浅井・朝倉軍 | |
1573年 | 天正元年 | 一乗谷城の戦い | 朝倉義景 | |
1575年 | 天正3年 | 高屋城の戦い | 三好・石山本願寺軍 | |
1575年 | 天正3年 | 長篠の戦い | 武田勝頼 | |
1575年 | 天正3年 | 越前一向一揆 | 越前一揆衆 | |
1579年 | 天正7年 | 丹波攻め氷上城攻略 | 波多野宗長 | |
1581年 | 天正9年 | 第二次天正伊賀の乱 | 伊賀惣国一揆衆 | |
1582年 | 天正10年 | 山崎の戦い | 明智光秀 | |
1583年 | 天正11年 | 賤ケ岳の戦い | 柴田勝家 |
その他の足跡
- 1535年 丹羽長政の次男として生まれる
- 1549年 父・長政が死没。兄・長忠が家督を継ぐ
- 1550年 織田信長に仕える(兄・長忠は斯波氏に仕える)
- 1554年 清州合戦で長忠討ち死に。長秀に家督が移る
- 1563年 信長の養女・桂峯院と結婚する
- 1568年 京都・畿内の行政を任される
- 1571年 嫡男・鍋丸(長重)が誕生する
- 1571年 近江・佐和山城主となる
- 1573年 若狭一国を与えられ、織田家臣初の国持大名となる
- 1573年 大船(長さ約55m、幅約12.7m)の建造を指揮する
- 1575年 九州の名門「惟住」の姓を与えられる
- 1576年 安土城の普請奉行に任命される
- 1579年 安土城の天守が完成する
- 1581年 上杉方への内通の疑いがあった越中国木舟城主・石黒成綱、願海寺城主・寺崎盛永父子を粛正する
- 1581年 京都御馬揃えで一番入場の栄誉を賜る
- 1582年 信長の子・信孝の補佐として、長宗我部征討軍の副将に任命される
- 1582年 上洛していた徳川家康の接待を津田信澄とともに命じられる
- 1582年 清州会議で羽柴秀吉に賛同し、信長の孫・三法師を支持する
- 1583年 若狭国・近江国に代わり、越前国・加賀国うち2郡を得て、北庄城に入る
- 1585年 寄生虫病が原因で死去
覚え書き
- もとは武蔵の児玉党の流れをくむ豪族だったが、尾張に移り、尾張守護の斯波氏に仕える
- 美濃攻めで加治田城主を味方につけ、黒田城主・於久地城主を投降させた
- 名刀「あざ丸」を所有していたが、眼病になったため熱田神宮に奉納した。その後、眼病も快復
- 惟住の姓を与えられたとき、一度「生涯五郎左で構わん」と断っている
- 佐久間信盛失脚後、柴田勝家に続く二番家老となる(織田の双璧)
- 武田滅亡後、休暇をもらって草津温泉で湯治していた
- 本能寺の変の際、光秀を討てる場所にいた。しかし征討軍の駐屯地から離れていたため、混乱した兵たちが四散するのを止められず、防備を固めるほかなかった
- 火葬のあと、焼け残った積聚がでてきた。鳥のような嘴をもった石亀のような形で、拳大。背に刀のあとがあった
- 息子・長重も信長の五女を妻としている。二代にわたって姻戚関係を結んでいるのは丹羽氏だけ
- 信長から「友であり、兄弟である」と称された逸話がある
- 家臣に『信長公記』の著者・太田牛一(尾張衆)がいた
- 『翁草』にて「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間」と評される
参考文献
- 『信長公記』(著:太田牛一、訳:中川太古)
- 『織田信長の家臣団――派閥と人間関係』(著:和田裕弘)
- 『寛政重脩諸家譜 第4輯』(https://dl.ndl.go.jp/pid/1082713/1/1)381p