名前 | 織田信行(信勝) | ||||
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生年 | – | ||||
没年 | 1558年12月11日 | ||||
出身 | 尾張国 | ||||
所属 | 織田弾正忠家 | ||||
異名 | 達成、信成、勘十郎 など | 武器 | – | ||
両親 | 父:織田信秀、母:土田御前 | 兄弟 | 信広、信長、お市の方 ほか | ||
配偶者 | 正室:高島局 | 子 | 津田信澄 ほか | ||
辞世の句 | – |
目次
足跡
- 父・信秀とともに末森城に居住する
- 1552年 父・信秀が死去し、末森城を継承する
- 1553年 独自に判物を発給。兄・信長と経済都市・熱田の利権をめぐって対立する
- 1553~1554年 名を達成に改名する。また、弾正忠を名乗る
- 1555年 弟・秀孝が叔父・信次の家臣に誤って殺害される。信次居城の守山城下を焼き払う
- 1556年 信長直轄地の横領を企て、稲生の戦いに発展。敗北するも、母・土田御前の取り成しで許される
- 1558年 龍泉寺城築城
- 1558年 再び横領を企てるも、重臣・柴田勝家によって信長に密告される
- 1558年 病と偽った信長を見舞いに行って謀殺される
覚え書き
- 父の葬式時、位牌に抹香を投げつけた兄に対し、信行は正装で礼儀正しい振る舞いだったという
- 柴田勝家・佐久間盛重・佐久間盛次らの重臣がついていた
- 信長の筆頭家老・林秀貞が信行方につき、兄弟の不和を招いた
- 秀孝死去の際、城下を焼き払った信行とは対照的に、信長は「一人で出歩いた秀孝にも非はある」として、信次を処分しようとしなかった
- 稲生の戦いでは直接戦闘に加わっていない。柴田勝家の敗走および林美作守の討死の後、末森城に籠城した
- 若衆の津々木蔵人を重用し、他の重臣を軽んじるようになった
- 津々木蔵人と共謀し、柴田勝家の暗殺を企んだがために、勝家を密告に走らせたという説もある
- 信行に仮病の兄を見舞うよう勧めたのは、柴田勝家と土田御前
- 信行の子・坊丸(のちの津田信澄)は助命され、柴田勝家のもとで養育された
- 『信長公記』では、織田勘十郎の名前で記されている
- 系譜では信行と記されるが、信頼性の高い資料では信勝と表記されている
参考文献
- 『信長公記』(著:太田牛一、訳:中川太古)
- 『織田信長の家臣団――派閥と人間関係』(著:和田裕弘)
- 『織田家臣団の系図』(著:菊地浩之)