名前 | 太田牛一 | ||||
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生年 | 1527年 | ||||
没年 | 1613年3月 | ||||
出身 | 尾張国 | ||||
所属 | 斯波義統 → 柴田勝家 → 織田信長 → 丹羽家臣 → 豊臣家臣 | ||||
異名 | 又助、和泉 | 武器 | 弓 | ||
両親 | – | 兄弟 | – | ||
配偶者 | – | 子 | 大田小又助、又七郎牛次 | ||
辞世の句 | – |
目次
主な戦歴
西暦 | 元号 | 合戦名 | 対戦相手 | |
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1554年 | 天文23年 | 安食の戦い | 織田大和守家 | |
1565年 | 永禄8年 | 堂洞城の戦い | 岸信周 | |
1576年 | 天正4年 | 天王寺の戦い | 本願寺軍 |
その他の足跡
- 1527年 尾張国春日井郡山田荘安食村に生まれる
- 成願寺で僧侶となっていたが、還俗。尾張守護の斯波義統に仕える
- 1554年 主君の斯波義統が暗殺され、柴田勝家の足軽衆となって安食の戦いに参戦
- 弓の腕が認められて織田信長の直臣に。六人衆の一人に選ばれる
- 1569年~1582年 丹羽長秀の与力となる
- 1582年 本能寺の変のあとは、丹羽長秀に2,000石で仕える
- 1585年 丹羽長秀病没後、長秀の子・丹羽長重に仕える
- 1587年 豊臣秀吉に召し出され、行政官僚となる
- 1558年 南山城・近江国浅井郡の代官を兼任する
- 1590年 豊臣秀吉に従軍して名護屋へ。奉行職に就く
- 1592年 文禄の役中、留守番衆として城を守る
- 1596年 後陽成天皇に『太閤御代度々御進発之記』を献上する
- 1598年 豊臣秀吉の側室の警護として、醍醐の花見に参加
- 1598年 豊臣秀吉没後、豊臣秀頼に仕える
- 1601年 徳川家康に『関ケ原合戦双紙』を献上する
- 1606年 南禅寺金地院・河内真観寺領の代官となる
- 1613年 大坂玉造で病没する
覚え書き
- 堂洞城の戦いで二の丸付近の高台に上がり、弓矢を用いて活躍。信長に三度も褒められ、知行も加増
- 美濃統一後は書記として活動。信長近侍の官僚として、寺社との間の行政を担う
- 長秀没後は、息子に公務を任せ、自身は隠居する
- 信長・秀吉・秀次・秀頼・家康について記した『五代之軍記』の著者
- 信長について記した『信長公記』は特に信頼性の高い史料として知られる
- 天道に基づいた運命論者で、『信長公記』にも顕著に表れている
登場作品
小説
- 『信長の棺』加藤廣、日本経済新聞社、2005年
- 『織田一の男、丹羽長秀』佐々木功、光文社、2019年
漫画・アニメ
- 『織田シナモン信長』目黒川うな、コアミックス、2014年-2021年
参考文献
- 『現代語訳 信長公記』太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫、2013年
- 『織田信長の家臣団――派閥と人間関係』和田裕弘、中央公論新社、2017年