名前 | 斎藤道三 | ||||
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生年 | 1504年? | ||||
没年 | 1556年5月28日 | ||||
出身 | 山城国 | ||||
所属 | 長井景弘 → 土岐頼芸 → 斎藤氏当主 | ||||
異名 | 長井規秀、斎藤利政、新九郎、 (美濃の蝮) | 武器 | 槍、鉄砲 | ||
両親 | 父:長井新左衛門尉 (または松波基宗) | 兄弟 | – | ||
配偶者 | 小見の方、深芳野、稲葉氏 | 子 | 義龍、孫四郎、喜平次、濃姫 ほか | ||
辞世の句 | 捨ててだに この世のほかは なきものを いづくか終の 住み家なりけん |
目次
おもな戦歴
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西暦 | 元号 | 合戦名 | 対戦相手 | |
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1542年 | 天文11年 | 大桑城の戦い | 土岐頼純 | |
1544年 | 天文13年 | 稲葉山城の戦い | 頼純・朝倉・織田 | |
1547年 | 天文16年 | 加納口の戦い | 織田信秀 | |
1552年 | 天文21年 | 大桑城の戦い | 土岐頼芸 | |
1556年 | 弘治2年 | 長良川の戦い | 斎藤義龍 |
その他の足跡
- 1504年(あるいは1494年) 下級武士の家系に生まれる
- 1529年 長子・龍興が生まれる
- 1530年 長井長弘らを暗殺して長井家を乗っ取る
- 1549年 織田信長に娘・濃姫を輿入れさせ、子・義龍にも信広の妹を縁組し、織田と同盟を結ぶ
- 1550年 美濃守護の土岐頼芸を追放し、国主となる
- 1553年 富田の正徳寺で織田信長と会見する
- 1554年 義龍に家督を譲り、隠居する
- 1555年 仮病を使った長男・義龍により、愛息子の孫四郎・喜平次を殺害される
- 1556年 長良川の戦いで討死
覚え書き
- 六角承禎が子の義治に送った書状によれば、長井氏に取り入ったのは道三の父で、道三の下剋上が始まったのは長井家の乗っ取りから
- もとは油売り(または油売りの子)だったという説があるが、江戸中期以降の創作である可能性が高い
- 若いころは相当なイケメンだったという説もある(『美濃国諸旧記』)
- 妙覚寺の日善上人の弟子となり、法蓮房と名乗っていた(『美濃国諸旧記』)
- 還俗後、油売りとなって、銭の穴に油を通す芸で人気を集めて儲ける(『美濃国諸旧記』)
- 油売りをやめて長槍や鉄砲の修行を始め、武芸を極めて土岐氏の重臣・長井家に仕える(『美濃国諸旧記』)
- 容姿端麗で武芸のみならず歌舞音曲にも優れていたため、土岐頼芸に重用される(『美濃国諸旧記』)
- 長男・義龍を生んだ深芳野は土岐頼芸の元愛妾だったため、義龍は頼芸の子とする説もある
- ほかに、義龍の母は稲葉一鉄の姉妹とする説もある(『武将感状記』『翁草』)
- 義龍が道三を討つ前後に、親殺しの代名詞である「范可」に名を改めていることから、道三の実子と思われる
- 正室の小見の方は、明智光綱(光秀の父)の姉とされる
- 太田牛一は著作のなかで、道三は「些細な罪でも釜茹でなどの残酷な刑に処した非道」としている
- 信長との正徳寺の会見後「息子たちは、あのうつけの門外に馬を繋ぐことになるだろう」と述べた(『信長公記』)
- 幼い我が子にむけた遺言状に「信長に美濃を譲るという書状を送った」という一文があるが、偽文書の可能性もある
- 道三が蝮と呼ばれるようになったのは坂口安吾著の『信長』(1952年)から?
登場作品
小説
- 『直木三十五全集 第3巻』「斎藤道三殺生伝」直木三十五、改造社、1934年
- 『国盗り物語』司馬遼太郎、新潮文庫、1971年
- 『織田信奈の野望』春日みかげ、GA文庫、富士見ファンタジア文庫、2009年-2019年
参考文献
- 『現代語訳 信長公記』太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫、2013年
- 『織田信長の家臣団――派閥と人間関係』和田裕弘、中央公論新社、2017年再版
- 『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』小和田泰経、新紀元社、2010年
- 『戦国武将、虚像と実像』呉座勇一、角川新書、2022年