名前 | 佐久間信盛 | ||||
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生年 | 1527年? | ||||
没年 | 1581年8月23日 | ||||
出身 | 尾張 | ||||
所属 | 織田家臣 | ||||
異名 | 半羽介、右衛門尉、夢斎 | 武器 | – | ||
両親 | 父:佐久間信晴? | 兄弟 | 信辰、明獄 | ||
配偶者 | 前田種利娘 | 子 | 信栄、信実 ほか | ||
辞世の句 | – |
目次
おもな戦歴
西暦 | 元号 | 合戦名 | 対戦相手 | |
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1560年 | 永禄3年 | 桶狭間の戦い | 今川義元 | |
1568年 | 永禄11年 | 箕作城の戦い | 六角承禎 | |
1569年 | 永禄12年 | 大河内城の戦い | 北畠具教 | |
1570年 | 元亀元年 | 野洲河原の戦い | 六角軍 | |
1570年 | 元亀元年 | 姉川の戦い | 浅井・朝倉軍 | |
1570年 | 元亀元年 | 志賀の陣 | 浅井・朝倉軍 | |
1571年 | 元亀2年 | 大田口の戦い | 一向一揆衆 | |
1573年 | 天正元年 | 槇島城の戦い | 足利義昭 | |
1573年 | 天正元年 | 小谷城の戦い | 浅井長政 | |
1573年 | 天正元年 | 若江城の戦い | 三好義継 | |
1575年 | 天正3年 | 高屋城の戦い | 三好・本願寺軍 | |
1575年 | 天正3年 | 長篠の戦い | 武田勝頼 | |
1575年 | 天正3年 | 越前一向一揆 | 一向一揆衆 | |
1576年 | 天正4年 | 天王寺の戦い | 雑賀衆 | |
1577年 | 天正5年 | 雑賀攻め | 雑賀衆 | |
1577年 | 天正5年 | 信貴山城の戦い | 松永久秀 | |
1578年 | 天正6年 | 神吉城の戦い | 神吉頼定 |
その他の足跡
- 1555年 織田信長に織田信時(秀俊)を守山城に入れることを言上し、この功で下飯田村100石を与えられる
- 1600年 桶狭間の戦いでは善照寺砦に入るが、戦いには加わらず終戦
- 1566年頃~ 信長の上洛準備として大和の国衆と連絡を持つ(柳生氏など)
- 1567年 松平信康に嫁ぐ徳姫(織田信長娘)の供として岡崎に赴く
- 1568年 信長の上洛戦に参加
- 1568年 信長帰国後も、村井貞勝らとともに京に残って政務に就く
- 1569年 柴田勝家らとともに堺の接収において活躍、その後もしばらく京畿に留まる
- 1570年 越前攻めには加わらず、京の守りに残る
- 1570年 浅井・朝倉の抑えとして近江の永原城に置かれる
- 1571年 羽柴秀吉とともに京で将軍警護にあたる
- 1572年 旧六角領の野洲・栗太群などと新与力を明智光秀と分ける形で与えられる
- 1572年 三方ヶ原の戦いに徳川方の援軍として参戦。平手汎秀を討死させたことを、後に責められる
- 1573年 将軍・足利義昭側近と信長重臣の誓書交換で署名している(義昭側の宛名にも名がある)
- 1573年 朝倉軍討伐の先陣でありながら出遅れ、叱責された時に抗弁。さらに怒りを買う
- 1573年 信長に叛いていた松永久秀の降伏を仲介する
- 1575年 水野信元の誅殺後、水野の旧領と家臣を付される
- 1576年 天王寺城に入り、本願寺攻めの主将となる(近畿方面軍総司令)
- 1579年 茶会での活動が多く記録に残されている
- 1580年 信長より19ヶ条の折檻状を送られ、子・信栄とともに高野山へ追放される
- 1581年8月23日 十津川にて病没
覚え書き
- 佐久間重盛や佐久間勝家と従兄妹とする説もあるが、詳細は不明
- 柴田勝家らと同様、古くから仕える老臣
- 織田信秀の葬儀では信行にお供している
- 水野信元の誅殺の原因は、佐久間信盛の讒言によるという説もある
- 撤退戦の巧みさから『翁草』にて「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間」と評される
参考文献
- 『現代語訳 信長公記』太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫、2013年
- 『織田信長家臣人名辞典 第2版』谷口克広、吉川弘文館、2010年
- 『織田家臣団の系図』菊地浩之、角川新書、2019年
- 『織田信長』桐野作人、新人物文庫、2014年
- 『織田信長の家臣団――派閥と人間関係』和田裕弘、中央公論新社、2017年