名前 | 柴田勝家 | ||||
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生年 | 1522年~1530年ごろ | ||||
没年 | 1583年6月14日 | ||||
出身 | 尾張国 | ||||
所属 | 織田家臣 | ||||
異名 | かかれ柴田、鬼柴田 | 武器 | にっかり青江 | ||
両親 | 父:柴田勝義? | 兄弟 | 姉妹が三人 | ||
配偶者 | お市の方 | 子 | 勝敏、勝政、勝豊 | ||
辞世の句 | 夏の世の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす |
目次
主な戦歴
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西暦 | 元号 | 合戦名 | 対戦相手 | ||
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1552年 | 天文21年 | 萱津の戦い | 清州織田軍 | ||
1556年 | 弘治2年 | 稲生の戦い | 織田信長 | ||
1568年 | 永禄11年 | 勝龍寺城の戦い | 岩成友通 | ||
1570年 | 元亀元年 | 姉川の戦い | 浅井・朝倉軍 | ||
1571年 | 元亀2年 | 第一次長島一向一揆 | 本願寺勢 | ||
1573年 | 元亀4年 | 石山城・今堅田城の戦い | 室町幕府軍 | ||
1573年 | 元亀4年 | 槇島城の戦い | 室町幕府軍 | ||
1573年 | 天正元年 | 一乗谷城の戦い | 朝倉義景 | ||
1573年 | 天正元年 | 小谷城の戦い | 浅井長政 | ||
1573年 | 天正元年 | 第二次長島一向一揆 | 本願寺勢 | ||
1574年 | 天正2年 | 第三次長島一向一揆 | 本願寺勢 | ||
1575年 | 天正3年 | 高屋・新堀城の戦い | 三好・本願寺軍 | ||
1575年 | 天正3年 | 長篠の戦 | 武田勝頼 | ||
1577年 | 天正5年 | 手取川の戦い | 上杉謙信 | ||
1580年 | 天正8年 | 一向一揆制圧 | 金沢御堂 | ||
1582年 | 天正10年 | 魚津城の戦い | 上杉軍 | ||
1583年 | 天正11年 | 賤ケ岳の戦い | 羽柴秀吉 | ||
1583年 | 天正11年 | 北ノ庄城の戦い | 羽柴軍 |
その他の足跡
- もとの主君織田信秀の没後は、信長の弟・織田信行に仕え、信長とは敵対していた
- 信行から離反し、信行を討たせるため助力する(信長が病だと騙って見舞いに来たところを討たせた)
- 信行の遺児・津田信澄を養育
- 1565年(永禄8年)には、丹羽長秀らと同じく奉行の一人となっている
- 1569年(永禄9年)1月~4月ごろ、京都・畿内の行政を担当する5人のうちの含まれる
- 1574年(天正2年)3月9日、多聞山城の留守番役に入る
- 1575年(天正3年)信長より「越前国掟全9条」とともに越前国8郡49万石、北ノ庄城を与えられる
- 1576年(天正4年)北陸方面軍司令官に任命される(与力:前田利家、佐々成政らがつく)
- 1577年(天正5年)ごろ、軍議にて羽柴秀吉と衝突。折り合いが悪くなる
- 1580年(天正8年)初冬、加賀国を平定し、能登国・越中国に進出
- 佐久間信盛失脚により、織田家筆頭家老の座を得る
- 1581年(天正9年)京都御馬揃えに前田利家らを率いて参加
- 本能寺の変後、丹羽長秀と連携して明智を討とうと計画するも間に合わず、明智は羽柴軍によって討たれた
- 織田の後継者として信孝を推すも、秀吉が擁立した三法師が継ぐことになる(清州会議)
- 北近江3郡と長浜城を得る
- お市の方と結婚する(信孝の仲介説と秀吉の取り計らい説がある)
- 最期、離反した家臣への恨みごとを言わず、最後まで付き従った家臣には生き延びるよう伝えた
- ルイス・フロイス曰はく「信長の時代のもっとも勇猛な武将」
- 随筆『翁草』より「木綿藤吉、米五郎左、かかれ柴田に退き佐久間」
登場作品
小説
- 『信長様はもういない』谷津矢車、光文社、2020年
漫画・アニメ
- 『信長協奏曲』石井あゆみ、小学館、2009年-
ゲーム
- 「戦国無双シリーズ」コーエーテクモゲームス
参考文献
- 『現代語訳 信長公記』太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫、2013年
- 『織田信長の家臣団――派閥と人間関係』和田裕弘、中央公論新社、2017年
- 『信長の家臣団≪増補版≫――革新的集団の実像』樋口晴彦、(株)パンダ・パブリッシング、2019年