名前 | 豊臣秀吉 | ||||
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生年 | 1537年3月17日 | ||||
没年 | 1598年9月18日 | ||||
出身 | 尾張国 | ||||
所属 | 織田家臣 → 豊臣 | ||||
異名 | 木綿藤吉、豊太閤、猿 など | 武器 | 一期一振 他、天下三作など多数 | ||
両親 | 父:弥右衛門、母:仲 | 兄弟 | 智、秀長、朝日姫 | ||
配偶者 | 正室:ねね、側室:茶々 ほか | 子 | 鶴松、秀頼、秀次(養子) ほか | ||
辞世の句 | 露と落ち 露と消えにし わが身かな 浪速のことは 夢のまた夢 |
目次
主な戦歴
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年号 | 元号 | 合戦名 | 対戦相手 | |
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1560年 | 永禄3年 | 桶狭間の戦い | 今川義元 | |
1568年 | 永禄11年 | 箕作城・観音寺城の戦い | 六角承禎 | |
1569年 | 永禄12年 | 阿坂城の戦い | 大宮含忍斎 | |
1570年 | 元亀元年 | 金ヶ崎の戦い | 浅井・朝倉軍 | |
1573年 | 天正元年 | 小谷城の戦い | 浅井長政 | |
1577年 | 天正5年 | 手取川の戦い | 上杉謙信 | |
1577年 | 天正5年 | 信貴山城の戦い | 松永久秀 | |
1578年 | 天正6年 | 三木合戦 | 別所長治 | |
1581年 | 天正9年 | 鳥取城の戦い | 吉川経家 | |
1582年 | 天正10年 | 備中高松城の戦い | 清水宗治 | |
1582年 | 天正10年 | 山崎の戦い | 明智光秀 | |
1583年 | 天正11年 | 賤ケ岳の戦い | 柴田勝家 | |
1583年 | 天正11年 | 北ノ庄城の戦い | 柴田勝家 | |
1584年 | 天正12年 | 小牧・長久手の戦い | 織田・徳川軍 | |
1587年 | 天正14年 | 戸次川の戦い | 島津家久 | |
1587年 | 天正15年 | 根白坂の戦い | 島津義久 | |
1590年 | 天正18年 | 小田原城の戦い | 北条氏政 | |
1592年~1593年 | 天正20年~文禄2年 | 文禄の役 | 明・朝鮮軍 | |
1597年~1598年 | 慶長2年~3年 | 慶長の役 | 明・朝鮮軍 |
その他の足跡
- 1543年 父・弥右衛門が病死する。
- 1544年 尾張の光明寺へ預けられる。寺での生活が合わず、のちに追い出される。
- 1551年 武士になるために旅に出る。
- 1551年 今川家臣で頭陀寺城城主の松下之綱に仕え、順調に出世するも、他の家臣に妬みにより離れることに。
- 1554年 尾張の戦国大名・織田信長に仕える。
- 1561年 ねねと恋愛のすえ結婚する。ねねの実家の姓を借り、木下藤吉郎と名乗るようになった。
- 1566年 盗賊頭・蜂須賀小六とともに墨俣城(一夜城)を築く。
- 1570年 軍師・竹中半兵衛を7度も訪ね、家臣になることを承諾させる。まさかの諸葛亮超え。
- 1573年 木下藤吉郎から羽柴秀吉に改名する。(丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらった)
- 1573年 浅井の領地だった近江を得て、長浜城を築く。
- 1582年 中国大返し(主君・織田信長が本能寺で討たれたと知った秀吉は、一週間足らずで京都に戻った)
- 1582年 織田家の跡継ぎを決める清州会議で主導権を握り、信長の孫・三法師を擁立した。
- 1583年 石山本願寺跡地に大坂城を築く。
- 1585年 関白に任命され、名を藤原秀吉と改める。
- 1585年 長宗我部氏をくだし、四国を平定する。
- 1586年 太政大臣に任命され、天皇より豊臣の姓を与えられる。以後、豊臣秀吉と名乗る。
- 1587年 「停戦令(惣無事令)」を発布する。
- 1587年 九州の島津氏らをくだし、九州を平定する。
- 1587年 「バテレン追放令」を出す。
- 1587年 京都に豪邸「聚楽第」を構える。
- 1588年 お市の方の娘・茶々を側室にする。
- 1588年 「刀狩令」を発布し、農民らから武器を取り上げる。
- 1588年 「海賊取締令」を発布する。
- 1589年 全国各地で検知を行う(太閤検地)
- 1590年 小田原北条氏をくだし、関東を平定する。
- 1590年 奥州の伊達政宗を従えて東北勢をくだし、天下統一を達成する。
- 1597年 秀吉が隠居するための城・伏見城が完成する。
- 1598年 醍醐寺で豪華な花見を開催する。
覚え書き
- 初めて仕えた松下之綱への恩を忘れず、松下家が滅亡したのちは之綱を家臣として雇い、厚遇した。
- 草履とりのころ、織田信長が寒い思いをしないようにと、彼の草履をふところで温めた逸話がある。
- ねねとの結婚の際、ねねの両親に反対されたが、前田利家をはじめとした周囲の応援もあり実った。
- 柴田勝家とは折り合いが悪かったらしい。
- 天才軍師・竹中半兵衛と黒田官兵衛を家臣としていた(通称・両兵衛)チートである。
- 猿のモノマネが得意だったという逸話がある。
- 信長の四男・於次丸(秀勝)を養子にもらっている(19歳で病死)
- 本能寺の変には秀吉黒幕説もある。(信長への援軍要請、中国大返しの手際のよさなどの理由から)
- 秀吉を天下人にしたがった黒田官兵衛が本能寺の変の黒幕……という説もある。
- 清須会議では、会議前に丹羽長秀に協力してくれるよう根回ししていたという説も。
- 綱引きが好きで、朝鮮出兵の前にもやっていた。佐賀の伝統「呼子大綱引」のもと。
- 「バテレン追放令」発布の理由は、大村純忠が長崎の土地を勝手に教会に寄付したから。
- 「バテレン追放令」の理由として、宣教師と九州の大名が結託して日本人奴隷貿易を行ったためという説もある。
- 「聚楽第」の意味は、楽しみが集(聚)まる屋敷(第) ここへ後陽成天皇を招くときにパレードを行った。
- 正室のねねのほか、側室が20人以上いた(織田信長は8人)
- 「どうにかして茶々を側室にしたい」という旨を正室のねねに相談していた逸話がある。ナメとんのか。
- 秀吉の家紋(沢瀉紋・五三桐・瓢箪・五七桐・太閤桐)
- 優秀すぎる弟・秀長(秀吉の3歳下)がいた(戦・経済・人柄すべてにおいて◎)
- 大坂城の地下にあるかもしれない豊臣埋蔵金伝説