名前 | 徳川家康 | ||||
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生年 | 1543年1月31日 | ||||
没年 | 1616年6月1日 | ||||
出身 | 三河国 | ||||
所属 | 織田人質 → 今川人質 → 松平独立 | ||||
異名 | 海道一の弓取り、狸親父 | 武器 | 日光助真、物吉貞宗 ほか | ||
両親 | 父:松平広忠、母:水野大子 | 兄弟 | 久松源三郎勝俊 ほか | ||
配偶者 | 正室:築山殿、継室:朝日姫 | 子 | 信康、秀忠、結城秀康 ほか | ||
辞世の句 | うれしやと 再び醒めて ひと眠り 浮世の夢は 暁の空 先に行く あとに残るも 同じこと 連れてゆけぬを 別れとぞ思う |
目次
主な戦歴
西暦 | 元号 | 合戦名 | 対戦相手 | |
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1558年 | 弘治4年 | 寺部城の戦い | 鈴木重辰 | |
1560年 | 永禄3年 | 桶狭間の戦い | 織田信長 | |
1561年 | 永禄4年 | 善明堤の戦い | 吉良義昭 | |
1561年 | 永禄4年 | 藤波畷の戦い | 吉良義昭 | |
1563~1564年 | 永禄6~7年 | 三河一向一揆 | 一向一揆衆 | |
1569年 | 永禄12年 | 掛川城の戦い | 今川氏真 | |
1570年 | 元亀元年 | 金ヶ崎の戦い | 朝倉・浅井軍 | |
1570年 | 元亀元年 | 姉川の戦い | 浅井・朝倉軍 | |
1573年 | 元亀3年 | 三方ヶ原の戦い | 武田信玄 | |
1575年 | 天正3年 | 長篠の戦い | 武田勝頼 | |
1581年 | 天正9年 | 高天神城の戦い | 武田勝頼 | |
1584年 | 天正12年 | 小牧・長久手の戦い | 羽柴秀吉 | |
1585年 | 天正13年 | 第一次上田合戦 | 真田昌幸 | |
1590年 | 天正18年 | 小田原城の戦い | 北条氏政 | |
1600年 | 慶長5年 | 第二次上田合戦 | 真田昌幸 | |
1600年 | 慶長5年 | 関ヶ原の戦い | 石田三成・毛利輝元 | |
1614年 | 慶長19年 | 大坂冬の陣 | 豊臣秀頼 | |
1615年 | 慶長20年 | 大坂夏の陣 | 豊臣秀頼 |
その他の足跡
- 1542年 三河岡崎城にて誕生(幼名:竹千代)
- 1547年 織田家の人質となる
- 1549年 松平家の家督を継ぐ
- 1549年 織田家との人質交換により、今川家の人質となる
- 1555年 元服し、松平元信に改名
- 1557年 正室・築山殿と結婚する
- 1557年 松平元康に改名
- 1559年 長男・信康が誕生する
- 1560年 桶狭間の戦いで今川義元が没したため、岡崎城に戻る
- 1561年 三河平定に臨む
- 1562年 織田信長と清州同盟を結ぶ
- 1563年 松平家康に改名
- 1566年 徳川家康に改名
- 1567年 長男・信康と信長の娘・徳姫が結婚する
- 1570年 浜松城に居城を移す
- 1570年 上杉謙信と同盟を結ぶ
- 1579年 三男・秀忠が誕生する(のちの第2代将軍)
- 1579年 信長の命により長男・信康と正室・築山殿が死没
- 1579年 北条氏と同盟を結ぶ
- 1582年 本能寺で信長が討たれたため、伊賀を越えて三河に戻る(伊賀越え)
- 1586年 秀吉の妹・朝日姫と結婚する
- 1590年 江戸城に入る
- 1598年 晩年の秀吉から豊臣家と秀頼のことを託される(五大老の一人となる)
- 1600年 会津征伐にむかう
- 1600年 石田三成らにより「内府ちかひの条々」が諸大名に送られる(家康への弾劾状)
- 1601年 伝馬制をはじめる
- 1602年 二条城を築城する
- 1603年 征夷大将軍に任命される
- 1604年 孫・家光が誕生する(のちの第3代将軍)
- 1605年 将軍職を三男・秀忠に譲る
- 1606年 江戸城から駿府城にうつり、江戸城の増築をはじめる
- 1612年 キリスト教を禁止する
- 1614年 方広寺鐘銘事件(国家安康 君臣豊楽)により、大坂の陣へ
- 1615年 一国一城令を発布
- 1615年 「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」を制定する
- 1616年 75歳で生涯をその終える
覚え書き
- 織田家の人質時代は、万松寺で過ごした
- 人質時代に出会った織田信長のことを兄のように慕っていた
- 今川家の人質時代は、臨済寺に預けられ、今川の軍師・太原雪斎から教えを受けた
- 囲碁・将棋・読書などが趣味の真面目な子どもだった
- アクティブな趣味は、鷹狩り
- 浄土宗を信仰していた(軍旗が「厭離穢土欣求浄土」)
- 三方ヶ原の戦いで浜松城に逃げ帰った家康は、あとから戻る家臣のために城門を開け放ったままにした。追ってきた武田の兵は、空城の計を警戒し、侵入してこなかった
- 三方ヶ原の戦いの敗走時、恐怖のあまり漏らしてしまったという伝説がある
- 家康の肖像画「しかみ像」は、敗戦の悔しさを忘れないためにかかせた絵といわれる
- 「しかみ像」は漏らしたときを描かれたのでは、という説もある。かわいそう
- 信康と築山殿が命を落としたのは、信長に武田家との内通を疑われたため。それを密告したのは、築山殿との嫁姑問題に悩んだ徳姫という説がある。
- 豊臣秀吉との関係は、織田が健在のころは良好だった。秀吉が織田の後継を名乗って以後、悪化した
- 秀吉が発した「御掟」を破り、各地の大名と積極的に交流を図った
- 直江兼続から送られた「直江状」に怒り心頭。会津征伐へ
- 関ケ原開戦前に、各地に書状を送り、味方を増やした
- 江戸城改築の指揮をとったのは藤堂高虎
- 五街道(東海道・中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道)を整備した
- 貨幣を統一した
- 家康が江戸に学問所をつくったことから、各地でも学問所が広まった
- 外国人の家臣がいた(ウィリアム・アダムスとヤン・ヨーステン)
- 家康の刀の流派は、新陰流と一刀流
- 家康は各地に鉱山を有していたが、質素倹約に努め、衣服も擦り切れるまで着ていたらしい
- 家康の死因は鯛の天ぷらにあたったという説もある
- 死後、関東の守り神となった(東照大権現)