合戦概要
安食の戦い | |||||
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開戦時期 | 1554年8月16日 | ||||
発端 | 織田大和守家が尾張の守護・斯波義統を殺害。義統の子・義銀が信長を頼って那古野城へ | ||||
決着 | 織田大和守家の重臣たちが討死。柴田勝家側の勝利となる | ||||
交戦勢力 | |||||
柴田勝家軍 | 織田大和守軍 | ||||
柴田勝家・太田牛一・由宇喜一 ほか | 河尻佐馬丞・織田三位 ほか |
合戦の流れ
守護・斯波義統の自害
1554年8月10日、尾張守護の子・斯波義銀が護衛とともに川釣りに出かけた隙をつき、坂井大膳ら織田大和守家の重臣が共謀して守護邸を襲撃しました。
老臣しかいない今こそ好機。反抗的な武衛様には消えていただきましょう
尾張の守護は斯波義統で、織田大和守家はその家臣である守護代の地位でしたが、実権を握っていたのは織田大和守家のほうでした。
織田大和守家の重臣たちは、義統が反抗を企てていると考え、斯波家を滅ぼさんとしたのです。
斯波家の家臣たちは懸命に戦いましたが、侵攻を防ぐことかなわず、義統をはじめ数十人が切腹しました。
出先でその事態を知った義銀は、川釣りから直接信長を頼って那古野城に逃げ込みます。
安食の戦い開戦
守護の子・斯波義銀を擁し大義名分を得た信長は、織田大和守家と敵対します。
軍を率いたのは柴田勝家で、8月16日に清州へと出陣しました。
清州勢(織田大和守軍)も軍勢を出し、山王口で応戦しましたが、柴田軍に押されて安食村まで後退します。
我らの槍のほうが長い!恐れず攻め立てよ!
武衛様を弑し奉った謀反人どもめ!我が矢をくらえ!
柴田勢の槍は長く、清州勢の槍は短かったため、リーチに大きな差がありました。
清州勢は支えきることができず、安食から誓願寺前、ついには町口の大堀のなかまで追い込まれていきます。
我が命運もここまでか、無念……
織田三位・河尻佐馬丞などの重臣を含んだ多くの清州勢が倒れ、柴田軍の勝利となりました。
織田三位を討ち取ったのは由宇喜一という守護家来の若者で、織田信長は彼の活躍を大いに喜んだそうです。
また、この安食の戦いには『信長公記』の著者として知られる太田牛一も参戦していました。
牛一は斯波家の直臣でしたが、弓の腕前を認められ、のちに六人衆の1人として信長の家臣に召されています。
合戦後の清州城
坂井大膳の策略
当時の清州城の城主は織田信友でしたが、実際に取り仕切っていたのは小守護代と呼ばれる坂井大膳でした。
坂井甚介・河尻佐馬丞・織田三位らを立て続けに失った大膳は、自分一人では切り盛りできないため、守山城の織田信光を味方に引き入れようと考えます。
守護代の座には、信友殿と信光殿のお二人で付いていただき、信長に対抗するさいには、なにとぞご協力を……
よかろう。すべて大膳の望むとおりにしよう
それはそれは!たいへん心強いことです。
信友殿もさぞお喜びになることでしょう
信光は大膳の誘いに承諾すると「決して裏切ることはない」という旨の起請文(誓約書)を書いて送りました。
信長と信光の密約
大膳の誘いに快諾し、起請文までしたためた信光でしたが、織田大和守家に与するつもりはありませんでした。
坂井大膳から誘いがあった。
私はそれに応じたふりをして清州の城を騙し取ろう
ほう。
叔父上はそれを俺にくれると?
ああ、清州の城はそっくり渡そう。
その代わりといってはなんだが、尾張の下4郡のうち東の2郡を私にくれないか
よし、いいだろう!
それではよろしく頼むぞ、叔父上殿
信光は、大膳の誘いにのったふりをして清州城を乗っ取るつもりでした。
また奪取した城を明け渡すことで、尾張の下4郡のうち東側2郡の領有を認めるよう織田弾正忠家当主の織田信長に求めたのです。
信長もこれに承諾し、二人の間で密約が結ばれました。
清州城奪取
1555年5月9日、織田信光は守山城から清州城の南櫓に移りました。
翌日になると、礼を述べに来る坂井大膳を討ち取るべく、信光は兵を伏せて待ち構えてます。
城の様子がおかしい……まさか!
信光め、私を謀ったのか!
しかし、大膳は途中で察し、今川義元を頼って駿河に逃げてしまいます。
小守護代の大膳がいなくなれば、残るは守護代の織田信友のみ。
信光は信友を切腹に追い込み、城を乗っ取ることに成功しました。
約定通り、清州の城は信長殿に引き渡そう
では、叔父上は那古野の城に入られよ
織田信長は尾張の中心である清州城に、信光は空いた那古野城に入り、すべてはうまく片付いたように思われました。
信光の不運
1556年1月7日、織田信光は不慮の事故により命を落とします。
『信長公記』には死因こそ書いていませんが、起請文に背いたために神罰が下ったと世間が噂したようすが記されています。
また小瀬甫庵の『信長記』では、信光の北の方と密通していた坂井孫八郎によって暗殺されたこととなっています。
参考文献
- 太田牛一著、中川太古訳『信長公記』2013年、新人物文庫
- 黒川真道編『日本歴史文庫 [4]』集文館、明治44-45年、国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/771443/1/42)