合戦概要
稲生の戦い | |||||
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開戦時期 | 1556年9月27日(弘治2年8月24日) | ||||
発端 | 柴田勝家・林兄弟らが信行を盛り立て、信長直轄地の篠木三郷を強奪 | ||||
決着 | 信行方の柴田勝家敗走、林通具をはじめ多数討死によって信長方の勝利 | ||||
交戦勢力 | |||||
織田信長軍 | 織田信行軍 | ||||
織田信長・森可成・織田信房 ほか | 柴田勝家・林通具・土田の大原 ほか |
合戦前の状況
1556年7月3日、織田信長は異母兄弟で守山城主の織田信時と2人だけで那古野城を訪ねます。
那古野城は織田信光亡きあと、林秀貞が差配していました。
秀貞は信長の筆頭家老でありながら、織田信行を織田家の後継に推して敵対していたため、この訪問は大変な危険なものでした。
実際、秀貞の弟である通具は、この時に信長の暗殺を提案していたといいます。
兄上、またとない機会です。信長公に詰め腹を切らせてはいかがでしょう
いや、仮にも3代に渡り恩を受けた主を、ここで殺しては天罰が下る。
信長殿のこと、そのうち何かしでかすだろうから、その時を待っても遅くはないさ
そうですね……。では、その機を待って
秀貞はここで主君を討ってはあまりに心がないと思ったのか、弟を諫め、信長らを無事に帰しています。
しかし、林兄弟が信行方であることは変わらず、むしろ彼らの画策により、信長・信行兄弟の溝は深まって行くのです。
合戦の流れ
発端から布陣まで
1556年9月、織田信行が織田信長直轄領である篠木三郷の地を強奪します。
信行のこと。きっと川岸に砦を造って川の東まで奪おうとするはずだ
信長は信行がさらに領地を奪いにくると予測し、先手を打つことにしました。
9月25日には、庄内川を渡ったところにある名塚の地に砦を築き、佐久間盛重を守備にあたらせます。
翌26日、柴田勝家軍1,000人・林通具軍700人が出動してきました。
今日は雨。庄内川の水嵩も大分増している
ええ。名塚の砦も未だ完成してはいないでしょう
天運も我らにあると見た。皆のもの、いくぞ!
これを受け、翌日の9月27日に信長も清州城から出陣します。
その数は700人弱で、稲生の村はずれから70メートルほど下がった東の藪際に布陣しました。
勝家の軍は村はずれの街道の東から西向きに攻め寄せ、通具は南の田園地帯から北上してきます。
開戦
VS 柴田勝家
1556年9月27日正午、織田信長は兵の過半数を柴田勝家の軍勢に攻めかからせました。
激しい打ち合いになり、山田治郎左衛門が勝家によって討ち取られました。
討ち取ってやったぞ!しかし、俺も……
首級をあげた勝家でしたが、勝家自身も手傷を負い、後方に退かざるをえません。
信長方も、佐々孫介らの猛将が討たれ、兵たちが信長の前まで逃げ帰るなど、一時危険な状態に陥りました。
そこで奮戦したのが、織田信房と森可成です。
2人は柴田勢の「土田の大原」を組み伏せ、相打ちにその首を取ってのけました。
そこへさらに信長が大声で怒鳴りかけると、敵ももとは身内であったためか、あまりの恐ろしさに逃げ帰って行ったのです。
VS 林通具
柴田勢を追いやった信長は、次に南に布陣する林通具勢を攻めました。
信長方の黒田半平が通具に斬りかかり、二人は長時間にわたって打ち合います。
激戦の末に半平の左手が斬り落とされ、危うくなったところへ、信長が口中杉若の助けを得て駆けつけました。
林美作、覚悟せよ!
信長は通具を突き伏せると、その首を取ったのです。
これによって柴田・林両勢は崩れ去り、それを馬に乗った信長勢が追い討っていきました。
翌日に首実検を行ったところ、信長自身が討った林通具をはじめ、歴々450以上もの首が並んでいたそうです。
合戦直後の状況
織田信行方は、那古野・末森両城での籠城を余儀なくされます。
織田信長は両城の城下を焼き払い、時々攻め込むなどして敵方を追い詰めました。
この状況は、信長・信行両名の母である土田御前が使者を立てて詫び状を送るなど、取り成しに入ったことで一時の解決を迎えます。
信長は信行方を許し、信行・柴田勝家・津々木蔵人・土田御前が清州城に来て礼を言いました。
また首謀者ともいえる林秀貞も、7月の那古野城で詰め腹を切らせようとした弟を止めた時のことを話し、許されることとなりました。
織田信行を誘殺
1558年、龍泉寺を城に改造した信行は、岩倉城の織田信安と共謀して篠木三郷を再び横領しようと企みます。
このころ、信行方の勢力に変化が生じていました。
信行の男色相手の津々木蔵人が権力を持ち、筆頭家老であったはずの柴田勝家をないがしろにするようになったのです。
これを無念に思った勝家は、信行の謀反を信長に密告しました。
信長様、内密に申し上げたきことが……
なに、信行がまた篠木三郷を狙っているだと!?
それ以来、信長は病を装って、いっさいの外出を避けました。
1558年11月22日、母・土田御前と柴田勝家のすすめを受けた信行は、信長の見舞いに清州城を訪れます。
しかし、それは信長が仕掛けた罠でした。
清州城北櫓天守次の間に通された信行は、信長の命を受けた河尻秀隆の手によって討たれたのです。
参考文献
- 『現代語訳 信長公記』太田牛一著、中川太古訳、新人物文庫、2013年
- 『織田信長の家臣団――派閥と人間関係』和田裕弘、中央公論新社、2017年